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徳富蘆花の『不如帰』のレビュー

題名も著者も読みにくいこの本は、尾崎紅葉の『金色夜叉』と並んで、自然主義以前の近代文学のベストセラーであった名作です。
文体も『金色夜叉』同様文語調です。

物語の筋は至ってシンプル。
新婚の浪子と武男は、お互いに唯一無二の伴侶を得て、その心は静かな海のように満たされていました。
浪子も武男も、一日たりとも離れていたくない、それほどお互いを愛していました。
しかしその幸せな結婚生活は長くは続かない・・・。浪子の結核と、様々な人間の悪意(自己顕示欲)が交錯して、遂に浪子と武男は本人達の同意なく一夜にして離縁させられてしまいます・・・。
結局、浪子は闘病の末、結核で亡くなり、武男は哀しみにくれます。

資産目当ての結婚や、家柄目当ての結婚などが常識であったこの時期に、純粋な恋愛に基づいた夫婦の幸福と悲劇を描き出した蘆花の視点は、やはり卓越していると言わざるを得ないでしょう。

さて、この作品はこのように真正面から読んでも面白いのですが、もう一つ別の視点から読むことが出来ます。
それはキリスト教と言う視点でしょう。
近代の日本においては、西洋の技術、西洋の生活の導入は急ピッチで進んだものの、初期のうちは西洋の内なる領域、すなわちキリスト教については誰も踏み込もうとしませんでした。
もちろん内村鑑三北村透谷、後の芥川龍之介から太宰に至るまで、日本近代文学史においてもキリスト教の強い影響を受けた作家たちは多々いるのですが、この頃はまだ文学にはキリスト教は登場してきません。
日本の文学にキリスト教が登場するのは、おそらくこの『不如帰』が最初ではないのだろうかと思います。

ただし、無理やり付け加えようとしたからなのか、キリスト教が登場するシーンはかなり唐突です。

離縁の哀しみと苦しい闘病生活に耐えかね、海に入水自殺をしようとした浪子を小川という女が救う。その女性が浪子に置いていったのが聖書でした。
この小説の冒頭で、著者自身も「小川某女の蛇足」と述べているように、このエピソードはやや蛇足にも見えるし、結局その聖書が浪子の心をどの程度癒す事が出来たのかは記されていません。

しかし物語のクライマックスにこの聖書のエピソードを持ってきたこと自体が、著者においてキリスト教への関心が高かった事を自ずと証明しているように思えます。

西洋の文学の底辺には、キリスト教という精神的な基盤があります・・・。

この本はその事にいち早く気付いたという点でも、やはり名作と称せられて相違ない作品だと思います。